LT vz. 38: プラハ製のベストセラー
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LT vz. 38: プラハ製のベストセラー

10月 22, 2020

記事:ユーリ・パショーロク


チェコスロバキア軍用の軽戦車の入札に勝利したCKD社はP-II戦車の製造契約を受領しました。この戦車は、チェコスロバキア軍により形式番号LT vz. 34で採用されました。間もなく別の入札が発表されましたが、こちらはCKDにとって失望に終わりました。軍は軽量のP-II-aを好まなかったのです。今回はシュコダ社が勝利を収め、そのS-II戦車がLT vz. 35として採用されました。ただし、CKD社もLT vz. 35の半数を製造する契約を勝ち取っています。

 

これと並行して、同社は輸出用の戦車も開発しており、こちらはより大きな成功を収めました。この輸出用戦車の開発作業が結実したのが、チェコスロバキア最高の戦前戦車LT vz. 38です。CKD社の戦車は最も多く製造され、チェコスロバキア戦車として有名になりました。にもかかわらず、その登場は自国の軍隊に貢献するにはあまりに遅すぎました。

 


輸出戦車としてのルーツ

1935年9月10日、プラハのイラン使節団はCKD社からAH-IV豆戦車50輌とTNH軽戦車50輌を購入する契約に署名しました。当時、これは史上最大規模の戦車輸出取引のひとつでした。CKDの地位は大きく向上し、II-a戦車設計の入札で敗北しても大規模な発注が委託されることになりました。

Praga TNH-S/LT vz.38 の車台の図表

外国のの関係に投資したことで同社への関心は高まりました。イランの後に接触してきたルーマニアも、AH-IV豆戦車に興味を示しました。同車輌の改装型であるAH-IV-Rはルーマニア軍でR-1として採用されました。スウェーデンも興味を示してきました。この結果45輌のH-IV-Svがスウェーデン軍において形式番号Strv m/37として運用されました。第二次世界大戦開始時、同車輌はスウェーデンで最も数が多い装甲車輌でした。

 

この大量発注により、CKD社は多くのスウェーデン工場と懇意になりました。チェコスロバキアとスウェーデンの協力関係はそれ以前に始まっていましたが、それは大砲関連でした。スウェーデンはシュコダ社の大砲に興味を持ったのです。今回は、CKD社の側がスウェーデン製品に関心を持ちました。当時抱えていた問題は、本来はプラガ社のトラック用に設計されたチェコスロバキア軽戦車のエンジンの出力が不十分だということでした。

 

スウェーデンのスカニア・ヴァビス社は1936年からスカニア・ヴァビス335トラックの改良型を生産していました。このトラックはScania-Vabis 1664 7.75 L 140 hpエンジンを搭載しました。このエンジンを最初に検討したのがスウェーデン軍です。1936年、彼らはランツベルク L-60戦車の購入を決定しました。しかし同戦車が搭載する他国製のBussing-NAG L8V-Gはスウェーデン軍に好まれませんでした。そこで代用としてScania-Vabis 1664が選ばれました。改装され形式番号L-60-Sをつけた戦車は、最終的にStrv m/38として採用されました。

 

CKD社の設計技師はこの戦車に関心を持ちました。そのエンジンはコンパクトかつ強力であり、輸出用軽戦車に搭載するには最適だったからです。

砲塔の内部

CKD社が国外市場を席捲している間、シュコダ社の方は苦戦をしていました。LT vz. 35に対する海外からの買い付けはあったものの、チェコスロバキア軍の発注は不調でした。1937年夏には大規模な不満の声が上がりました。設計上の不備が明らかとなり、低品質の部品も頻繁に問題を引き起こしていました。

これらの問題は非常に深刻であり、この結果第3次の103輌の発注は延期されました。1937年11月7日になってようやく交渉がまとまりましたが、発注数は減少しました。この結果、各社が製造したLT vz. 35戦車はわずか149輌のみとなりました。チェコスロバキア軍は当初この戦車を約600輌発注する予定でいたにもかかわらずです。

1940年のTNH-Sの外観。主砲は撤去され、プラガTNHから取られたダミーに置き換えられている

LT vz. 35戦車300輌の発注を中止する決定が、軽戦車に関する新しい要求性能の発表と併せて1937年10月30日に国防省で行われました。両社は、それぞれの輸出用戦車で入札に参加することを決断しました。シュコダ社が提案したS-II-aRは、同じLT vz. 35ですがルーマニア用に改装した戦車でした。CKD社は一から戦車を製造する必要がありました。実験的なTNH試作車輌はイランに送られ、訓練目的に使用されていました。

 

戦車の発展も軍からの要求も留まることを知らない当時としては、この車輌が恐らく最良の選択だったことでしょう。しかしTNH戦車は完全には満足できないものでした。これは特に装甲において当てはまります。輸出用戦車の既存の設計を利用しながら、CKD社の設計局はアレクセイ・スーリンの監督の下で新しい戦車を素早く設計しました。より安価で製造するために軟鋼を使用しましたが、製造費はそれでも高額となり、費用である1,020,000チェココルナは大量生産される戦車の価格を25%上回りました。

 

TNH-Sにとってこれらの障害物は苦にならなかった

形式番号TNH-Sをつけた改良型戦車は1937年後半に試験に入りました。総じて、この戦車の設計はTNHと同一ですが、若干異なる部分もありました。新型戦車はScania-Vabis 1664のコピーであるPraga TNHPSエンジンを搭載しました。新しいエンジンの出力は125 hpと、従来のTNHエンジンを約1/3上回りました。装甲厚は25 mmで、当時のチェコスロバキア軽戦車としては標準的でした。戦車の全長は5 cm延びました。

 

車体の砲手/無線手席は変更されました。ドイツのPz IVと同様に、砲塔プラットフォームの正面装甲板が移動しました。これにより天蓋にハッチを設置することが可能になりました。観測機器も改良されました。

同じ戦車を左側から見た写真

この戦車はTNHのダミー砲塔をつけて試験を行いました。この段階の試験では戦車の機動力のみがテストされ、砲塔は重要ではないためです。380 kgのダミーの主砲も使用されました。最初に、TNH-Sは550 kmの工場試験を実施しました。その後、1938年1月18日にこの戦車はミロヴィツェ陸軍基地に到着し、訓練場試験を行いました。この車輌には暫定的な登録番号P-10.074が与えられました。

 

6日後に別の戦車であるP-II-Rが到着し、登録番号P-10.071が与えられました。これは予備用で、LT vz. 34を更に改良した戦車でした。この車輌はTNH-Sと同じエンジンとPraga-Wilson変速装置を搭載していました。しかし、輸出用に調整した戦車の方が優秀であることがすぐに明らかになりました。

 

TNH-Sの更なる試験がヴィシュコフ近郊の試験施設で続行されました。この車輌をテストした戦車兵たちは、既にCKD社の設計に慣れ親しんでいました。彼らはイランに輸出されたTNH戦車を既にテストし、満足していました。新型戦車は更に優れていることが分かりました。試作車輌TNH-Sは合計5000 kmを走行しました。

 

この戦車は1938年3月末にCKD社のリベン工場に帰還し、そこで37 mm A7 Skoda砲を搭載したLT vz. 35の砲塔を搭載しました。更に試験の結果を受けて設計された様々な改良も施されました。頻繁にオーバーヒートしたPraga-Wilson変速装置には、油冷システムが追加されました。

 

2814 km~3419 kmを走行したシュコダ社の戦車では、数々の欠点や故障が判明しました。その当時 CKD社の戦車は重大な故障をひとつも起こさずに5584 kmを走行しました。チェコスロバキア軍がTNH-Sを好んだのも驚くべきことではありません。この戦車はスロヴァキア地方のグルボク砲撃試験場に送られ、A8砲のテストを受けました。射撃速度は毎分7発でした。その後、この戦車はシュコダ社のプルゼニ工場を訪問し、ボレヴェツ試験場で3日間に渡り合計470発を発射しました。

エンジン室ハッチの優れた設計により、泥まみれにならずにエンジンの作業が可能

 

この戦車は1938年7月1日に最終形となりました。当時のこの戦車は、LT vz. 34やLT vz. 35で使用されていたのと類似した新型砲塔を受領しました。車長用キューポラが最も大きく変わっています。ペリスコープがハッチから砲塔天蓋に移動し、観測機器が変更されました。砲塔ハッチは再設計されました。簡素化され、ハッチと車長用キューポラの間の吸気孔が撤去されています。

 

この車輌はキイ試験場で提示されました。選定委員会には、国防省の第1局および第2局を代表して、ヴォゼニレク将軍およびネティク将軍も参加していました。提示の結果、委員会は満場一致でこの戦車をLehký tank vz.38 (38号軽戦車)、または簡潔にLT vz. 38として運用することを承認しました。同様にA8砲も、形式番号3.7 cm kanon PÚV vz.38として運用が承認されました。


大いなる悲劇を前に

LT vz. 38の運用が承認された当時は、ドイツとチェコスロバキアとの緊張が高まっていました。ドイツは1938年3月11日~3月12日にオーストリアに軍を進めました。これに対しオーストリア軍は抵抗しませんでした。オーストリアの産業はドイツの軍拡政策に完全に統合されました。

 

チェコスロバキア西部の状況はこれとは異なりました。ドイツは、ドイツ系住民が大部分を占めるズデーテンラントの独立を主張しました。ドイツ国防軍は5月20日に侵攻軍を組織しました。この侵攻は実施されなかったものの、両国間の緊張は高まり続けました。チェコスロバキアは部分動員を実施し、同年夏には戦車を大規模に使用した軍事演習が行われました。公式にはチェコスロバキアの同盟国であるイギリスは、5月からチェコスロバキア政府に圧力をかけ続けていました。この事態の結末は誰の目にも明らかでした。

大量生産第1期のLT vz. 38。ドイツ軍で使用された際の形式番号はPz.Kpfw. 38(t) Ausf.A

LT vz. 38の大量生産の準備は1938年4月に開始しました。入札の勝者が誰になるかは、既に明らかでした。4月24日、CKD社は1939年2月より生産予定の150輌の製造費用の見積もりを提示しました。この第1期の戦車を皮切りに、より多くの車輌が発注される予定でした。

 

チェコスロバキア軍の唯一の不満は費用でした。戦車1輌の価格は640,180チェココルナ ($25,600) でした。これはLT vz. 35より1/3高額です。当然、軍は値下げを希望しました。公平に見れば、そこまで高額ではありません。当時のT-26の輸出価格は$20,000であり、BT-5の価格は$30,000でした。

 

値下げ交渉は2カ月続きましたが、価格を大幅に下げることは不可能でした。この戦車の兵装と機動力はLT vz. 35より優れ、変速装置やエンジンのような高額の機材は明らかにシュコダ社の戦車を上回っていました。発注者側はなんとかわずかな値下げに成功しました。1938年7月22日に署名された契約番号č.j.26300 V/3.odd.8は、CKD社に2回に分けて150輌の戦車を納品することを義務付けています。最初の100輌のクラドノのポルディ・ヒュッテ社が生産する装甲板で製造し、費用は1輌あたり620,146コルナでした。残る50輌はVHHT (ヴィトコヴィツェ製鉄所) が生産する装甲板で製造し、費用は1輌あたり619,570コルナでした。

 

この価格には兵装の費用は含まれていません。シュコダ社は3.7 cm kanon PÚV vz.38砲1門につき103,500コルナを請求しました。

レールアンテナはLT vz. 38の基本装備のひとつだった

CKD社のリベン工場が戦車の製造地に選ばれました。同社のLT vz. 34その他の戦車もこの地で製造されました。トラックや車の生産者であるプラガ工場がエンジンや変速装置を供給しました。最初の戦車の納品は1938年後半でしたが、緊張の高まりを受けてチェコスロバキア軍はペルー軍に納品予定だったLTP軽戦車の購入準備を整えました。

 

ミュンヘン会談後には、作業効率が低下しました。にもかかわらず、11月中旬にはクラドノから最初の装甲板が到着しました。VHHT社の納品は遅れ、1939年の冬後半にようやく最初の装甲板が届きました。最初の10輌のLT vz. 38は1939年5月15日に完成を待つばかりとなりました。しかし、これらの車輌には兵装がありませんでした。例によって、シュコダ社の納品が遅れていたからです。主砲の有無に関係なく、これらの戦車が歴史の流れを変えることはできませんでした。チェコスロバキアの運命は1938年秋のミュンヘンで決まっていました。

 


「我々の基準には及ばず」

ミュンヘン会談後に、チェコスロバキア軍は行動指針を大きく変更しました。以前は、各種の開発計画は秘密裡にされました。しかし、軍を強化する意味がなくなったことを知った政府は、自国の軍需産業に対して国外市場に対し積極的にアピールすることを許可しました。これは失策とはいえません。国際貿易の3%が国庫に入るからです。

 

このことは、CKD社の輸出用戦車に類似したLT vz. 38にも当てはまりました。TNH-Sは展示ユニットとして使用されました。この車輌に対する調査が7月11日に工場で行われた結果、7740 kmを走行しても各パーツに重大な疲労は見られないことが分かりました。修理とわずかな近代化を受けて、後に形式番号TNH-Pをつけるこの車輌は国外の買い付け業者に展示を行う準備が整いました。

ファーンバラでの試験中のTNH-P、1939年3月

奇妙なことに、最初に興味を示したのはイギリスでした。アルヴィス・ストラウスラーとシュコダ社の間でLT vz. 35のライセンス生産に関する交渉が1938年9月に開始しました。情報の秘匿がなくなった後では、チェコスロバキアが更に興味深い戦車を保有していることが明らかになりました。これを受けて、CKD社との交渉が1938年末に開始しました。

 

1939年2月28日、TNH-Pとボグスラフ・コラル中尉 (国防省の命を受けたLT vz. 38計画の監督官) はイギリスに向けて出発しました。この戦車は弾薬以外は完全装備していました。2本のアンテナ (ロッドおよびレール) 付きの無線が設置されていました。また、他の輸出用戦車と同様の装備品も搭載しました。これらの車輌は明灰色で塗装され、観測機器と兵装は黒色でした。Praga LTPその他の輸出用戦車と同じく、サイドライト一式と正面の大型ヘッドライトを備えていました。ゴム製のマッドフラップも装着しました。弾薬を携行しないこの戦車は9.15 t、弾薬携行時には9.7 tでした。

この車輌は生産型のLT vz. 38とは多くの点で異なっている

TNH-Pはファーンバラの機械化実験所 (MEE) に配送されました。この戦車は 466 kmを走行し、うち165 kmは不整地でした。試験では、操縦の容易さと高い機動力を見せつけました。このため、最終的に不採用となったのは奇妙です。

弾丸を防護できる観測機器を備えた小型車輌を製造しようとして、我々の基準を満たす機動力を欠いた窮屈な車輌になっていました。

工具箱の搭載もLT vz. 38とは異なっている

このような結論になったことは非常に不思議です。当時のイギリスが製造していた戦車を思い出してください。巡航戦車Mk. IIIとその改良型である巡航戦車Mk. IVはTNH-Pによく似た性能を持っていました。しかし出力重量比を除けば、これらの車輌はTNH-Pより優れてはいません。装甲は互角である一方 (ただしイギリス戦車が若干劣っていました)、両イギリス戦車の兵装はチェコスロバキア戦車よりも脆弱でした。イギリス戦車の内部空間が快適だと評価するのも困難です。これらのイギリス巡航戦車は定期的な故障に見舞われており、一方のTNH-Pは精密な時計のように作動しました。

 

1年後、これらの戦車がアブヴィル近郊の戦場で対峙したことで、性能の違いは明らかとなりました。1942年にイギリス軍事使節団が行った要請は、1939年の不採用の決断を踏まえれば喜劇的ですらあります。鹵獲されたドイツ戦車である砲塔番号543のPz 38(t) は、1942年にイギリスの要請を受けてソ連が送った車輌でした。第19戦車師団に属するこの戦車は、1941年10月16日にセルゲエフカ近郊の戦闘で撃破されました。後にこの車輌はモスクワ第82工場で修理されました。

 

スロヴァキアは1940年秋に最初のLT-38を採用した。

実験車輌TNH-Pはドイツ占領下のチェコに帰還しました。当時、スロヴァキアは公式には独立国でした。大量生産されたLT vz. 38は、新たな主人に仕えることになりました。ドイツによるLT vz. 38の生産に関しては別の記事に譲り、ここではスロヴァキア用の戦車生産について説明しましょう。

 

1940年、ドイツの同盟国であるスロヴァキアには、自国の軍隊用に数輌の戦車を購入する権利がありました。その中に当然含まれたのがLT vz. 38、当時は既にPz 38(t) Ausf.Aと呼ばれていた戦車でした。スロヴァキアは試作型のTNH-Pをテストしました。主砲は37 mm A 4 beta砲のダミーに交換されました。

パレード中のスロヴァキア戦車部隊。マルティン、1941年3月14日。写真から分かるように、これらの戦車にはレールアンテナが設置されていない。

 

合計10輌の戦車が発注され、スロヴァキア軍では形式番号LT-38をつけました。スロヴァキアで製造された戦車はチェコスロバキア軍用に製造されたLT vz. 38とほぼ同一でした。これらの戦車の製造番号はV-3000~V-3009です。1941年6月、これらの戦車はソ連侵攻に参加しました。このうち6輌は戦闘で失われました。

 

リポヴェツの戦闘で撃破されたLT-38 V-3000、1941年6月22日

オリジナルのLT vz. 38戦車の1輌が現存しています。この製造番号8の戦車は戦闘に参加し、ソ連の対戦車ライフルの弾痕がついています。第二次世界大戦終了後、この戦車はチェコスロバキア軍が受領し形式番号LT-38/37をつけました。現在、この戦車はレシャニ軍事博物館に展示されています。なお近年の修復作業によって、当初の姿を取り戻しています。


翻訳:ピーター・サムソノフ

warspot.net

参考文献:

Czechoslovak Tanks 1930–1945 Photo-Album Part 2, Vladimir Francev, Karel Trojanek, Capricorn Publications, 2014

Praga LT vz.38, V. Francev, C. Kliment, MBI, 1997

Export Light Tanks.Tanque 39, Pzw 39, LT-40, V. Francev, C. Kliment, MBI, 2007

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