歴史上の戦車たち: Pantherの先祖たち
ニュース / コミュニティ

歴史上の戦車たち: Pantherの先祖たち

2月 18, 2021

記事:ユーリ・パショーロク


ドイツ中戦車の誕生は毎回、長時間を要する難産となりました。Panther (5号戦車パンター) も例外ではありません。最も大量生産されたドイツ戦車のひとつであるPantherは、約5年の間に20トン級戦車から45トン級戦車へと大型化しました。Pantherはこの期間中に著しく姿を変え、その設計にはT-34が大きな影響を与えました。Pz.Kpfw.IIIの代替車輌として計画された、この戦車の開発の歴史を振り返ってみましょう。


トーションバーとの格闘

1930年代後半のドイツの戦車製造関係者は、中戦車の製造に苦労していました。ラインメタル社が最初に開発したBegleitwagen (B.W.) 戦車は、発注者の期待とはほど遠いものでした。しかしドイツ軍は幸運でした。クルップ社は戦車の砲塔だけでなく、まるごとひとつの新型戦車を開発したからです。この車輌はPz.Kpfw.IV (4号戦車) として配備が承認されました。クルップ社の戦車は、重量の要件を満たした唯一の車輌でした。問題は、Pz.Kpfw.IVが主力中戦車Zugführerwagen (Z.W.) を補う戦車とされたことです。公式には、ダイムラー=ベンツ社がこの計画の入札に勝利していましたが、彼らの設計案は実際には洗練されたものとはいえませんでした。

最初の4輌は、基本的に機能するサスペンションを探るためのテストベッドでした。正真正銘の最初の大量生産型はZ.W.38となる予定でした。その開発は、陸軍兵器局第6課において履帯付きシャーシ設計の中心的専門家であるハインリヒ・クニーカンプの支援の下で行われました。彼の設計したシャーシは、トーションバー式サスペンション、片側6個の中型転輪、12 L Maybach HL 120 TRエンジン、10速式Maybach Variorex 328 145半自動変速装置を備えていました。

 

Z.W.38と同一の砲塔を備えたVK 20.01(D) シャーシの図表。複雑な構造のリーフ式サスペンションに注目されたい

Z.W.38はPz.Kpfw.III Ausf.Eとして生産されましたが、試験および生産の双方で遅延が生じました。ゴムパッドをつけた履帯リンクの構想は不十分であることが判明したため、履帯を交換する必要がありました。変速装置に関しても、多くの不満がありました。戦車は配備されたものの、1939年秋には変速装置の数々の欠点や転輪の縁の消耗が早いことに関して、山のような苦情が報告されています。この戦車は、もう一度再設計する必要がありました。1940年に生産が開始されたSSG 77変速装置搭載型のPz.Kpfw.III Ausf.Hは、最大速度が40 km/hでした。一方、ダイムラー=ベンツ社は1938年に2種類の計画に同時に着手していました。1番目の車輌であるZ.W.40の特徴は、新型エンジンと、直径が大型化した転輪を備えた走行装置です。

2番目の、より興味深い設計の車輌はVK 20.01 (III) と命名されました。Pz.Kpfw.IIIを代替するこの車輌は、一から設計されてはいないものの、Pz.Kpfw.IIIとは著しく異なっています。この最初の20トン級戦車は、1938年12月14日に準備が整いました。この戦車は、11.6 L 300 hp Maybach HL 116エンジンと交互配置型の転輪を付けたトーションバー式サスペンションを備える予定でした。

ダイムラー=ベンツ社は、20トン戦車を試作段階まで進めることができた唯一の企業であった。ディーゼルエンジンを使用した最初のドイツ戦車でもある

Z.W.38と同様にVK 20.01 (III) の開発作業も、第6課およびクニーカンプの個人的な監督を受けました。しかし、ダイムラー=ベンツの設計技師たちはクニーカンプとの間に多くの問題を抱えており、彼の構想の多くは結果的に不十分なまま終わりました。彼らの忍耐力は、Z.W.38が前線で一斉に故障を起こした1939年9月に限界に達しました。クルップ社と同様に、ダイムラー=ベンツ社にも影響力のあるパトロンがいました。10月、同社は機械化開発標準化委員会より、独自の戦車を開発する許可を取得しました。クニーカンプはこれを重大な侮辱であると感じ、決して許しませんでした。新型戦車はGBK (全権委任戦闘車輌) と命名されました。この構想は1938年11月15日に完成しました。交互配置型の680 mm転輪は保持しましたが、ダイムラー=ベンツ社はトーションバー式サスペンションの代わりにリーフ式サスペンションを採用しました。Pz.Kpfw.38(t) で使用されたものに類似した遊星歯車式Wilson変速装置がMaybach Variorexに代わりに使用されました。SSG 77は予備オプションと見なされました。エンジンも伝統からは逸脱しており、この戦車は350 hp 17 L Daimler-Benz MB 809エンジンを使用しました。

クルップ社のB.W.40戦車はこのような外観であった。クルップ社同様に、ダイムラー=ベンツ社もリーフ式サスペンションを好んだ

ダイムラー=ベンツ社が彼らの戦車 (後にVK 20.01(D) と改名) の開発に取り組んでいる間に、第6課はPz.Kpfw.IVの代替車輌の開発作業を開始しました。この車輌はVK 20.01 (IV) と呼ばれました。技術的観点からは、この戦車はVK 20.01 (III) と類似した車輌となる予定でした。開発作業は1939年9月にクルップ社に委ねられましたが、この大企業がクニーカンプの方向性から逸脱するのに時間は要しませんでした。戦車の横幅が長すぎたため、交互配置型の転輪付きのトーションバー式サスペンションは廃止せざるを得ませんでした。代わりに、クルップ社は彼ら自身の構想を提案しました。直径630 mmの転輪を片側に6個付けたPz.Kpfw.IVと同様のサスペンションです。同様の解決策が、後にPz.Sfl.IVbで実践され、400 mm広軌履帯リンクが使用されました。本計画は1939年11月にVK 20.01 (BW) に改称され、12月にはBW.40へと更に変更されました。この時期に、クルップ社とダイムラー=ベンツ社はそれぞれの戦車の装甲を50 mmに増加させています。3台の実験的なシャーシが計画されましたが、1940年5月にBW.40計画は前線における困難な状況が原因で中止されました。フランスとの本格的な戦闘が始まったのです。

第6課の要件を満たすためにクルップ社が設計したVK 20.01 (K)

実際には、クニーカンプはBW.40の廃案に大きく関与していました。VK 20.01(D) に携わる者は誰もおらず、別の戦車であるVK 20.01(K) の開発作業がその直後に開始されました。BW.40とは異なり、この戦車はトーションバー式サスペンションと直径の大きな転輪を備えていました。第3の企業であるMAN社が設計競争に加わりました。最初の2社と異なり、MAN社の設計局の責任者であるパウル・ヴィービケとフリードリヒ・ライフはクニーカンプが定めた要件に拘りました。しかし1940年10月に発表されたVK 20.01(M) にも、当初の構想と比較していくつかの変更点がありました。この戦車のシャーシは依然として交互配置型の転輪とトーションバー式サスペンションを備えていましたが、トーションバーのための空間に余裕はありませんでした。1番目と最後の転輪はばね式サスペンションでした。1941年には、よく似た3台のシャーシが開発されました。クルップ社は彼らの車輌に50 mm KwK 38 L/42砲を搭載した砲塔を設置しました。一方、他の2社は75 mm砲を搭載した砲塔を使用しました。

一方、第6課はシャーシの設計に関する新構想を定期的に提案していました。この「創造性」の最大の犠牲者となったのがクルップ社です。3月には、開発中のVK 23.01(K) の重量は23トンまで増加しました。ダイムラー=ベンツ社は、徹底的にではないにせよ冷遇されていたため、これらの変更を行いませんでした。しかし、彼らの進捗は遥かに良好でした。1941年2月に最初のMB 809が製造され試験を受けました。製造番号30009をつけたVK 20.01 (D) 試作型の試験は3月に開始されました。車輌の重量は22.3トンで、試験時の速度は50 km/hに達しました。この車輌は、ディーゼルエンジンを搭載した最初のドイツ戦車です。

3番目の中戦車であるVK 20.02 (M)。VK 20.01(D) とは異なり、固有の砲塔を備えている

Pz.Kpfw.IIIとPz.Kpfw.IVの代替計画における大きな混乱は、1941年の状況を調べれば明白です。ダイムラー=ベンツ社が彼らの戦車を開発している一方、マン社とクルップ社はより多くの計画に関わるようになりました。クルップ社は夏までに3輌の戦車に携わっていました。VK 23.01(K) に加えて、彼らは依然としてVK 20.01(K) およびVK 20.02(K) を開発していました。MAN社はVK 20.01(M) およびVK 20.02(M) の2輌の戦車の開発に従事していました。VK 23.01(K) の走行装置はMAN社製戦車と共通しています。全体的な構想は以下の通りです。VK 20.01がPz.Kpfw.IIIを代替し、生産時には恐らくPz.Kpfw.III n.A.と呼ばれることになっていました。クニーカンプが想定したPz.Kpfw.III n.A.は、周囲に50 mmの装甲を備えたものでした。VK 20.02またはPz.Kpfw.IV n.A.に関しては、40 mmの装甲とより大型のシャーシ (Pz.Kpfw.III n.A. の1650 mmに対し1800 mm)を備える予定でした。VK 20.01(K) の重量は約21.5トン、VK 20.02(K) は23トンでした。兵装はPz.Kpfw.IIIおよびPz.Kpfw.IVと同一でしたが、Pz.Kpfw.III n.A.にはL/60砲も計画されていました。タングステンの調達問題は既に明白となっていたものの、先細り型砲身のWaffe 0725を搭載する構想も存在しました。この戦車はクルップ社が設計した新型砲塔も受領する予定でした。

20トン級戦車の最終版であるVK 20.02(M) は新型の車体を備えていた。本計画はしばしばVK 24.01(M) と呼ばれるが、これは正確な名前ではない

理論上、これらの戦車は最大速度50~56 km/hかつ37 mm級の主砲に対する防御力を有する機敏な車輌となるはずでした。現実には、金属製の車輌を製造できたのはダイムラー=ベンツ社のみでした。失敗の原因は、砲塔を含む設計の絶え間ない変更でした。決定打となったのは、ソ連戦車の登場です。具体的には、ムツェンスクの戦いで失われた第4戦車旅団のKV-1およびT-34でした。1941年11月18日、第6課課長ゼバスティアン・フィヒトナーが委員長を務める戦車委員会は、撃破されたこれらの戦車を調査しました。旧式の箱状の車体は時代遅れであることは明白でした。T-34の車体と砲塔の双方が、新たな模倣対象となりました。その砲塔設計は、Pz.Kpfw.VI (Tiger) Ausf.Bおよび初期のMaus戦車の外観に影響を与えています。

見直された要件に最初に応えたのがMAN社です。同社は11月25日に、傾斜装甲を備えた新型の車体を設計しました。第6課も、重量上限を24トンまで増加させました。これは、VK 20.01とは大きく異なる、全く新しい戦車の開発への第一歩となりました。20トン級の各戦車は1941年12月に中止されました。


巨人たちの戦い

フィヒトナーに加えて、ムツェンスクを訪問した一行には、ポルシェ、クニーカンプ、アーダース、ヴンダーリヒ (ダイムラー=ベンツ社を代表する砲塔設計者)、そしてドイツの戦車製造におけるその他の中心的人物たちが含まれていました。委員会の結論は動揺を引き起こしました。Pz.Kpfw.IIIとPz.Kpfw.IVだけでなく、現在構想中の全ての設計案がT-34およびKV-1と比較して時代遅れとなっていたからです。抜本的な改良を行う命令が下されたのも驚くことではありません。重量を24トンまで増加させたことは最初の一歩にすぎませんでした。12月半ばには、上限を30トンに引き上げる必要があることが明らかとなりました。フィヒトナーはこの決定に反対しました。重量の増加によって、新戦車の開発が必要となり、時間を浪費すると考えたからです。また、30トン級戦車は水上輸送するに乗せるには重すぎ、更には戦車が大型化するほど生産できる数も減少します。

今回は、兵器弾薬省大臣のトッドが重量の増加に賛成しました。この間に、クルップ社が競争から脱落し、ダイムラー=ベンツ社とMAN社が共同開発をすることになりました。

1942年春に制作された、VK 30.01(D) 中戦車の模型。ダイムラー=ベンツ社がT-34戦車を模倣しているのは明らかである

当初、重量上限は32.5トンでしたが、1942年1月には36トンに増加しました。このVK 30.02戦車を巡って、MAN社とダイムラー=ベンツ社は対立しました。MAN社は第6課と共同開発を行いましたが、ダイムラー=ベンツ社は単独開発を選びました。その産物であるVK 30.02は、T-34に類似した戦車となりました。トランスミッションは後部配置となり、砲塔は前方に移動しました。本来は軽魚雷艇用に設計されたDaimler-Benz MB 507ディーゼルエンジンを搭載する予定でした。VK 36.01のHenschel L 600 C旋回機構およびリーフ式サスペンションが使用されました。ラインメタル=ボルジッヒ社が開発した75 mm砲が提案されました。当初、この主砲の全長は60口径でしたが、1942年2月に70口径へと伸長されました。当初VK 45.01(H) 重戦車用に設計されたラインメタル社製の砲塔も併せて提案されました。

後部配置のトランスミッションに加えて、ダイムラー=ベンツ社は彼ら自身の砲塔を使用することで戦車に対する要件から逸脱した。このことは、戦車史において決定的な役割を果たした

MAN社の戦車開発責任者であるパウル・ヴィービケはダイムラー=ベンツ社の構想に異を唱えました。彼には、クニーカンプとフィヒトナーという強力な2人の味方がいました。第6課の課長であるフィヒトナーはVK 30.02の構造やサスペンションを気に入りませんでした。1942年1月後半に開かれた会議においてこの対立は過熱化したため、トッドは本計画を分割することに同意しました。ダイムラー=ベンツ社の首席技師であるヴィルヘルム・キッセルも賛成しました。彼は、ヒトラーが1942年1月22日に提示されたVK 30.02の模型を承認していた事実から、勝利を予期していました。そのように解釈できる余地は十分にあったのです。計画に従い、ダイムラー=ベンツ社は1942年夏までに5輌の戦車を製造する予定でした。1輌はMB 507ディーゼルエンジンを、もう1輌はMB 503ガソリンエンジンを、そして残りの車輌はMaybach HL 210ガソリンエンジンを搭載することになっていました。総じて、ヒトラーはダイムラー=ベンツ社の計画へと傾いていました。その後の開発が示したように、キッセルの喜びは時期尚早でした。

VK 30.01(D) の水平リーフ式サスペンションは大きな批判に晒された。現場での修理は恐るべき苦痛となったであろう

MAN社は状況の転換を想定していました。1942年2月3日の第6課との会議で、新戦車の草案がヴィービケとライフに提示されました。ダイムラー=ベンツ社の戦車と異なり、この計画は前述の提案に沿うものでした。トランスミッションおよび駆動スプロケットは前部に配置され、サスペンションはトーションバーを使用しました。VK 30.02 (MAN) は、前部配置のトランスミッションのために全長が幾分短縮されていました。砲塔も中央寄りになったため、操縦室の天蓋にハッチを設置できました。

砲塔に関しては、個別に説明する価値があります。当初は、ラインメタル社が開発する予定でした。このことは、MAN社が1月後半に独自の砲塔案を提示することを妨げになりませんでしたが、同案は否決されています。MAN社が担当したのはシャーシのみです。ダイムラー=ベンツ社は1942年春に独自に作業を進め、自社製の砲塔を開発していました。汎用的なラインメタル社製砲塔の代わりに、L/70 Rheinmetall砲を搭載した独自の砲塔を製造しました。

VK 30.01(D) のトランスミッションの図表。トランスミッションも複雑であった

競合する計画案の車輌性能は、1942年3月2日に確定しました。ダイムラー=ベンツ社の計画はPanther VK 30.02(D) と命名され、MAN社の計画はPanther VK 30.02(MAN) と命名されました。両計画の重量上限は35トン、想定速度はVK 30.02(MAN) が55 km/h、VK 30.02(D) が57 km/hでした。両戦車は当時としては素晴らしい装甲を備えていました。下部装甲板は60 mm の厚さがあり、水平方向に対して50度傾斜していました。上部装甲板はこれより薄いものの (40 mm)、水平方向に対して35度傾斜していました。砲塔の正面装甲は80 mmで、ソ連の76 mm砲に耐えるには十分な防御力があります。

ヒトラーは3月前半にも依然としてダイムラー=ベンツ社の案を支持しており、200輌の試験的生産を行うように主張しました。状況が変化したのはこの3月のことです。トッドが1942年2月8日の飛行機事故で死亡し、後を継いだのはシュペーアでした。この結果、第6課とその対抗勢力との間のパワーバランスは大きく変化しました。ヴォルフガング・トマーレとローベルト・フォン・エーベラン=エーバーホルストを代表とする特別委員会が組織され、より優れた設計の選定にあたりました。

MB.507エンジンは1942年の試験中に720馬力に達した。マイバッハ社の圧力団体はこの設計の信用を傷つけることになんとか成功したものの、良い結果はひとつも得られなかった

ダイムラー=ベンツ社とMAN社の計画に関する議論は、1942年5月1日から5月7日まで続けられました。軍事的合理性、技術的合理性、生産的合理性など、複数の観点からの比較が行われました。興味深いことに、ダイムラー=ベンツ社の計画は、VK 30.01(D) という別の名前で参照されています。この結果、彼らは2種類の戦車を開発していたという神話が生まれましたが、それは間違っています。異なる名前を用いたのは、恐らくは欺瞞のためでしょう。

この計画は1942年12月にPz.Kpfw.IIIを代替すべく新しい中戦車の大量生産を行うためのものでした。更なる大量生産が1943年前半に想定されており、1943年半ばにはPantherはドイツ軍で一般的な戦車となる予定でした。要件は大幅に変更され、VK 30.01(D) は支持されませんでした。

1942年5月2日、VK 30.02(M) の草案。ダイムラー=ベンツ社の設計とは異なり、MAN社はクニーカンプの提案を極力使用している

軍事的合理性の分野には、評価のためのいくつかの基準が含まれていました。当時の両車輌は、Maybach HL 230 700 hpエンジンを使用する予定でした。どちらの車輌も出力重量比22 hp/tという要件を満たしませんでしたが、40 km/h以上という速度要件は共に達成しました。VK 30.01(D) は最低速度の要件に4 km/h届きませんでした。ダイムラー=ベンツ社の戦車はVK 30.02(MAN) と比較して携行燃料が少なく、それぞれ 550 Lと750 Lでした。新型砲塔を開発するという構想も、委員会には不評でした。光学機器と同軸機関銃の設置場所に関する不満がありました。砲塔リングはラインメタル社製砲塔よりも50 mm狭かったため、互換は不可能でした。結果として、ダイムラー=ベンツ社の設計局の努力は徒労に終わり、無用の問題を生み出してしまいました。新型砲塔の設計には3~4カ月を要し、主砲も変更する必要があるため、開発作業を継続するのは無意味でした。

ダイムラー=ベンツ社の戦車と異なり、VK 30.02(M) は汎用的なラインメタル社製砲塔を使用して建造された

後部配置型と前部配置型のトランスミッションにはそれぞれ長所と短所がありましたが、委員会はトランスミッションに関する結論は出しませんでした。VK 30.01(D) は操縦手と車体内の砲手用の作業空間の快適性で上回りましたが、VK 30.02(M) には天蓋のハッチから操縦室に入るのが容易だという利点がありました。トランスミッションを後部配置する代償は、車体が長くなるだけなく、砲塔を前方に移動させる必要もあったことです。これにより、戦車は射撃プラットフォームとしては不安定となります。Leichttraktor Kruppを想起させる何本もの操縦桿を付けたサスペンションも短所でした。MAN社はトーションバーにおいて優れていました。危険な水位を渡河する能力も上でした。ダイムラー=ベンツ社の戦車は、軍事的な観点からは明らかに劣勢でした。

古典的なドイツ風のレイアウトにより、砲塔は中央付近に配置された

MAN社の勝利は、技術整備の観点からも明らかでした。トランスミッションを前部配置することでアクセスは悪くなりましたが、MAN社は取り出すための大型ハッチを用意しており、砲塔を外さずに撤去することができました。現場でのダブルトーションバーの交換と整備には問題があると考えられました。これに関するドイツ軍の経験不足は、特に問題視されました。VK 30.02(D) に不満点がなかったわけではありません。例えば、中央スプリングを撤去するために片側の全ての車輪を外さないといけないのは、長所とはいえません。

ダイムラー=ベンツ社の設計は、技術的評価についても否定的でした。後部配置されたダイムラー=ベンツ社の変速装置は設計の複雑化を引き起こしました。特に、円筒状のファイナルドライブの追加です。変速装置は非常に大型で、信頼を獲得できませんでした。VK 30.02 (MAN) とその3軸式ZF AK 7/200変速装置が好ましいと考えられました。リーフ式サスペンションは、搭載するために車体の車高を100 mm低くしないといけないために、再度批判の対象となりました。接地圧も大幅に高く、0.15 kg /㎠上回りました。最後に、VK 30.02(MAN) は生産の観点からも優れていました。ダイムラー=ベンツ社の案は車体の製造に351.5時間を要しました。一方、MAN社の案は327時間でした。MAN社のサスペンションの費用は高額でしたが、リーフ式サスペンションに対して多数の不満点があったために、これは障害とはなりませんでした。

Maybach HL 230エンジンは、当初Pantherに使用され、後にはTigerに搭載された

結果は想定通りのものでした。5月11日、委員会はVK 30.02(MAN) が議論の余地のない勝者であると宣言しました。この判定の理由には諸説あります。VK 30.01(D) とT-34の外見上の類似性や、ダイムラー=ベンツ社に対する陰謀論などです。実際の理由は遥かに単純であり、同社の戦車が、その競争相手と比べて明らかに劣っていたからです。おまけに、砲塔も依然として再設計する必要がありました。その責任はダイムラー=ベンツ社にありました。

シュペーアは3月20日にダイムラー=ベンツ社の戦車の開発を中止するように命令しました。製造された唯一のシャーシは実験用に使用されました。MB 507エンジンの廃止の理由は、十分な台数を建造できる可能性がないためだと言われています。実際の理由はマイバッハ社の圧力であり、一部の者が主張するようにディーゼル燃料を海軍が独占していたためではありません。ドイツ陸軍は十分な数のディーゼルエンジンを保有していました。ドイツの工場は150,000輌を超えるディーゼル駆動トラックを製造しました。ドイツ軍はV-2エンジンも鹵獲していました。このエンジンは試験中に600馬力を出しました。Maybach HL 230エンジンは完全には解決できない欠陥を多数抱えていることが判明したので、国産ディーゼルエンジンを放棄するという決断は誤りでした。しかしこれが判明したのは後のことであり、1942年春から夏にかけてのマイバッハ社は成功を祝っていました。


予備付きのシャーシ

戦車の装甲に対する最初の改良は、委員会の評価前の1942年5月に実施されました。両戦車の上部装甲板は60 mmに増加し、下部装甲板の傾斜は35度になりました。重量は変わらず35トンのままで、要件を満たしていました。60 mmでは不十分ではないかという疑問の声が、5月半ばに上がりました。このため、装甲厚は再度80 mmに強化されました。これは始まりにすぎませんでした。ヒトラーは、装甲は更に厚く100 mmである方が望ましいと発言しました。砲塔前面は、後にこの水準まで重厚化された

最初の試作型 (Versuchs-) Pantherは1942年9月に製造された。搭載されているのは模造砲塔である

装甲の開発作業と並行して生産が計画されました。ダイムラー=ベンツ社は全てを失ったわけではありません。彼らの戦車は選出されなかったものの、ベルリンのWerk 40工場は新型戦車の生産契約を受領しました。Pz.Kpfw.IIIの代替車輌を生産したもうひとつの企業はヘンシェル社でした。Tigerの生産方法に関する問題は1942年夏には解決しましたが、同工場が主に生産していたのはPz.Kpfw.IIIでした。VK 30.02 (Panther) を製造する予定となった4番目の工場はMNHです。残る課程はただひとつ、生産と試作車輌の試験です。

バート・ベルカで試験中の同車輌

当初の計画では、VK 30.02 (MAN) 試作型の製造を1942年8月に行う予定でした。よくあることですが、この計画は修正されました。試作型Pantherとして知られる最初のVK 30.02 (MAN) は9月に製造されました。ラインメタル社は期限までに砲塔を製造できず、この車輌は模造砲塔を搭載して試験されました。シャーシはこの戦車が1942年5月に承認されたものとほぼ同一でしたが、マフラーは失われています。MAN社の設計局は、1942年12月までの青写真ではマフラーを残していました。

2両目の試作型は1942年10月に製造された。その時までには、装甲を強化する必要があることは明白となっていた

完全な状態の試作型Pantherの2輌目は1カ月後に製造されました。シャーシは最初の車輌と全く同じであり、唯一の違いは後部の新しい道具箱のみです。最も重要な変化は砲塔の追加でした。これは当初VK 45.01用に想定された砲塔の更なる改良型でした。もちろん、中戦車に搭載するために変更されています。にもかかわわず、後方へと広がる六角形状のシルエットと主砲防盾は残っています。

結果として得られた砲塔の高さは同じでしたが、わずかに長く、そしてより重要なことに幅が広がっています。砲塔は当初窮屈でした。後部装甲板が大型で平坦であったため、右側にあった脱出用ハッチがそこに移動しました。天蓋には換気扇とそのための蓋が追加されました。六角形状のシルエットは残りましたが、側面が引き延ばされることで大型になりました。車長用キューポラは、張り出しを追加することで最大限左側に移動しました。実験砲塔は、VK 30.02のスケッチに描かれているものよりも背が高く幅が広かった点は特筆に値します。

試作型Pantherは、生産型Pantherとはいくつかの点で異なっている

もちろん、砲塔には兵装もあります。実験砲塔には、実験的な75 mm KwK L/70砲 (製造番号RV1) が搭載されました。これは恐らく、7.5 cm KwK 40 L/43砲で使用されているのと似たシングルバッフル型のマズルブレーキを備えた主砲としては唯一の例でしょう。また、TZF.12 双眼観測装置が使用されました。砲塔には、左右それぞれに、2列に配置された煙幕弾発射装置3基も設置されていました。

試作型Pantherに使用された最初の75 mm KwK 42 L/70砲

試作型Panther V2に関する多くの重要な性能諸元が現存していません。重要な項目である重量もそのひとつです。この試作型の重量は35トンだったのではないかと考えられています。生産された戦車に装甲や数々の変更点が追加されているにせよ、10トンは増加していないでしょう。V2試作型は、おそらく計画よりも2~3トン重かったと想定されます。

車長席は左側に移動し、結果として砲塔側面に張り出しが加わった。生産型の車輌ではこの張り出しは存在していない

試作車輌は、2輌目の製造直後に機動性試験へと送られました。11月8日~14日に訓練施設と試験場を備えたバート・ベルカにおいて、最大の試験が行われました。これは非常に大規模な車輌展示会となりました。2輌のVK 30.02 (MAN) およびVK 30.01(D) に加えて、実験的なVK 36.01重戦車およびZW.41中戦車、2輌のVK 45.02(P) と2輌のVK 45.01(H) が配送されました。フィヒトナー、トマーレ、ポルシェ、シュペーア、その他の第6課および戦車委員会の代表たちも参加しました。試験では、MAN社静の戦車が運動性と機動力において優れていることが明らかとなりました。VK 30.01(D) に関しては、試験初日に故障し、その後は参加できませんでした。

実験的なダイムラー=ベンツ製戦車の悲劇的な末路。VK 20.01(D) およびVK 30.01(D) はこのようにして戦争終結を迎えた

試験終了時には、VK 30.02 (MAN) を改装した上で生産すべきであることは明白となっていました。装甲を改良するための要件は残っており、試験中に発見された解決すべき問題 (シャーシ、砲塔、兵装に関して) も多数存在していたからです。2輌の試作車輌は、様々な技術的新構想の試験を行うために運用され続けました。


warspot.net

参考文献:

  1. ドイツ連邦公文書館軍事記録局
  2. アメリカ国立公文書記録管理局
  3. Panzer Tracts No.3-5 Panzerkampfwagen III U mbau Conversions to Z.W.40, Pz.Kpfw.III (T), Pz.Kpfw.III (Funk), Pz.Kpfw.III (Fl), Pz.Beob.Wg.III, SK 1, Brueckenmaterialtraeger, and Munitionspanzer, Thomas L. Jentz, Hilary Louis Doyle, 2011
  4. Panzer Tracts No.5-1 Panzerkampfwagen «Panther» Ausfuehrung D with Versuchs-Serie Panther, Fgst.Nr.V2, Thomas L. Jentz, Hilary Louis Doyle, 2003, ISBN 0-970847-8-1
  5. Panzer Tracts No. 20-1 – Paper Panzers, Thomas L. Jentz, Hilary L. Doyle, Panzer Tracts, 2001
  6. Germanys Panther Tank: The Quest for Combat Supremacy, Thomas L. Jentz, Hilary L. Doyle, Schiffer Publishing, 1995 ISBN 0-88740-812-5